聖書神話の解読



聖書神話の解読―世界を知るための豊かな物語 (中公新書)

『聖書神話の解読―世界を知るための豊かな物語 』(中公新書)
西山 清 著

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 バブルの崩壊とともに、土地神話や安全神話の崩壊などとしきりに叫ばれるようになってきた。 耳を傾けてみると、どうやらこのような場合の「神話」とは、ウソとか幻想をさすことばのようだ。しかし、神話とはほんらい空虚な絵空事などではなく、れっきとした生存のリアリティを生み出す物語である。たとえていえば、神話には病因学と同じような性格がある。ある病気の原因を探り、現象としてあらわれた病状との因果関係をつきとめて、その病気の全体像を解明するのが病因学である。いっぽう、古代人の日のまえにあった森羅万象の不可思議や来歴に思いを巡らせ、それぞれ別個の事象をたがいに関連づけて、世界のしくみを有機的に説明したものが神話なのである。

 古代人にとって、風のささやき、水の流れ、小鳥のさえずりなどはみな神秘であり、何かはわからないが、そこに自分を超えた不思議な力の存在を彼らは感じていた。説明のつかない状況に放り出されたときに何ともいえず不安な気持にかられるのは、古代人も現代人も変わりはない。 ただ、客観的な情報など皆無にひとしかった古代においては、不安はそのまま自分が存在する世界のリアリティがなくなることを意味した。いわば存在の危機に古代人は日々さらされていたのである。

 そこで、目には見えないけれども、さまざまな現象の背後にはそれらを操るさまざまな超人とか神々がいると説明づけ、自分たちの住む世界にリアリティをもたせる必要が生じた。神話が機能するのはこのような場合である。たとえいまの世から考えればつじつま合わせにすぎないと思われるようなものでも、神話は決して無定見につくられたものではない。無秩序に限前に広がる事象の背後にある種の法則や秩序を想定することにより、古代人は、いや現代人さえもじつはそうなのだが、自分とはいったい何者であるのかとか、あるいはこの広い世界と自分はどのような関係で結ばれているのかという、存在の位相を確認していたのである。人びとは日のまえの不可思議な世界に神話というヴエールをかぶせて、それによって得られたリアリティを生きていたのである。

 ヴエールをかぶせたなどというと、神話も結局は作り事にすぎないのだなどと思われるかもしれないが、そうではない。簡単な例を挙げてみよう。いまこの本を読んでいる現在の自分の姿を、あなたは何によって知るのだろうか。ヴィデオや写真があるといわれるかもしれない。だが、それはレンズという媒体をとおした画像であるにすぎない。では鏡はどうか。しかし、鏡に映ったあなたの姿は左右反対の虚像であって、決してあなたの姿そのものではない。それでもあなたは虚像(作り事)としての姿を、実像(リアリティ)として了解しなければならない。さもなければ、あなたは自分というもっとも身近なはずの存在ですらその実体がわからないという、いわばカフカ的状況の恐怖に囚われることになる。われわれ人間があるものの実体を把握しょうとするときには、何らかの意味での虚構が必要なのである。これは芸術一般についていえることだが、虚構とは単なるウソではなく、真理に到達するための手段として、存在するものにかぶせられるヴエールなのである。

 古代人がどのようにリアリティを生み出そうとしていたのかを理解するために、ここで古代ゲルマン詩のひとつ 『グリムニズマオル』から天地創造の一節をひいてみよう。


イミルの肉から大地ができ、汗(あるいは血)からは海ができた。
骨からは山々ができ、髪からは木々が、頭蓋骨からは天ができた。
その眉で優しき神々はミズガアズという 人の住む領域を造った。
さらに脳髄からは雲を造形したために、雲は気難し屋となってしまった。


 この北欧神話によれば、天地のすべてはイミルという「霜の巨人」の肉体から造形された。イミルはこの世がはじまるまえの、いわば原初の領域に住んでいた最初の生き物であった。古代人にとって何かを測る基準は自分の肉体でしかなかったのだから、かれらの想像力が描き出す宇宙が巨大な人間の姿をとったとしても不思議はない。イミルにかぎらず、聖書でもアダムは神の写し絵としてつくられたことになっているが、それは神がアダムと同じような姿をしていたという意識の裏返しなのである。

 世界とその中に生きる人間は有機的に結ばれている。総体として把握できる自分の体を宇宙という途方もない相手に投射することにより、人は宇宙全体を自分の体の相似として実感をもって捉えることができたのである。ここから、大宇宙(世界)と小宇宙(人間)が照応の関係にあるという思考の方向が生まれる。ルネッサンス期の巨星ウォルター・ローリー卿も『世界の歴史』の中で、人間の体と宇宙の事物との照応関係を説き明かしている。カバラや錬金術、あるいはネオ・プラトニズム、はては魔術、呪術のたぐいにいたるまで、およそそれらの根っこにあるものはこの照応関係という考え方にほかならない。この考えにしたがえば、一方に不都合が生じたならば、その影響はかならず他方にあらわれてくる。体や精神の不調は照応関係にある星辰の動きの異常によると考えれば、人はこぞって夜空を見上げたことだろう。占星術が編み出された理由もそこにある。

 この本では、いま述べた神話創造の観点から聖書の世界を読み解いてみようと思う。グレコ・ローマンのいわゆる古典神話は読者にもおなじみだろうが、聖書もヘブライ・クリスチャンの神話なのである。中世にはこんないいつたえがあった。「神は人間に二冊の書物をお与えになった。 一冊は自然という書物、そしてもう一冊が聖書である」。この二冊の書物を通じて人は神の意志と目的、つまり摂理を読み取るのである。そして、この摂理がヘブライ・クリスチャソ神話のヴエールとなる。聖書が語源的には「ビブロス」、つまり「パピルス」と同じく「紙」でしかないのに、「本のなかの本」(Book of Books)といわれるようになったのにはこういう理由がある。

 聖書が旧約と新約の二部からなることは、読者もよくご承知のことと思う。旧約とか新約ということばに含まれる「約」は「契約」の約であり、古いヘブライの神と人とのあいだに結ばれた契約が旧約であり、新しいキリスト教の神と結ばれた契約が新約である。このうち旧約聖書はユダヤ民族の歴史と信仰を説く聖典であり、いまからおよそ三千年もまえから紀元前三世紀ごろまで営々と語り継がれながら、しだいに文書化されてまとめられたものである。いまでもユダヤ人にとっての「聖書」とは旧約聖書のみをさす。これに対し、新約聖書はもともとキリスト教の布教のために書かれたものであり、成立年代も紀元一世紀から二世紀ごろであった。

 キリスト教の聖典は旧約と新約をあわせた「聖書」なのだが、それはキリスト教では旧約と新約が密接な関係のもとにひとつの総体を構成すると考えられているからだ。イエスはことあるごとに「わたしは(モーセの)律法を破壊しにきたのではなく、成就するためにきた」というが、そのように新約聖書は旧約聖書の内容を成就するものとして捉えられる。これをタイポロジー(予型論)と呼ぶ。たとえていえば、旧約と新約の世界は、たがいに相手のコートに打ち込んでは打ち返されるテニス・ボールのようなものである。旧約の世界でなされた行為や語られたことばは、新約の世界で成就され、逆に新約の世界でなされ、語られることはすでに旧約の世界で預言されていたことなのである。

 わたしがこの本で考える新約の世界とは、平たくいえばイエスという一個人の生涯をさす。つまり、ユダヤ民族の苦難と信仰の歴史がイエスというひとりの人間の行為とことばに収斂してキリスト教信仰の核となるのであれば、イエスの生涯は単なる個人としての生涯ではなく、民族、さらには人類全体の歴史という普遍性に支えられた信仰を体現することになる。この意味において、イスラエルの民の歴史という個別性はイエスの生渡において「永遠の相のもとに」普遍化され、人類全体の歴史、あるいは人類のたどるべき道筋を示すのである。放蕩、無頼をもって生の美学とし、あげく男色の咎で投獄された希代の伊達男オスカー・ワイルドも、イエス個人の生が万民の生であり、イエスの出現により個別の歴史はそのまま世界の歴史に通じたと喝破していた。

 イエスが生まれたのは紀元前四年ごろであり、きわめて頭脳明晰な子供として家族とともに幼少年時代を過ごしたといわれる。「ルカ福音書」によれば、十二歳のときにはすでにユダヤ教の寺院であるシナゴーグで、律法学者らを相手に信仰について堂々と議論を戦わせていた。ところが、その後の生活はいっさい知られておらず、つぎにわれわれがイエスを知るのは三十歳でバプテスマのヨハネによって洗礼(バプテスマ)を受けたときである。しかも、三年後にはもう十字架につけられてしまう。いいかえれば、キリスト教は教祖による布教活動の期間がわずか三年しかなかったのである。それにもかかわらず、それから三世紀のちにはキリスト教はすでに他の宗教をおしのけてローマの国教にまでなっており、やがては世界の文明を支えるひとつの巨大な精神的支柱となったのである。この事実はさまざまな宗教の歴史の中でも特筆に値する。

 ところで、聖書というと現在日本では「共同訳」のものが一般的だと思われるが、わたしの聖書神話の解読は「欽定訳」という英語の聖書をもとにしている。この聖書は一六一一年ジェームズ一世治下のイギリスで、それまでの俗ラテン語から翻訳された聖書の不備をあらためるなどして、全面的に新しく翻訳されたものである。わかりやすさとともに格調の高さでもつとに名高く、昔から英米の文学作品に引用される聖書のことばのほとんどは「欽定訳」からのものであった。「欽定訳」が世界の翻訳文学の中で「もっとも偉大な翻訳」と呼ばれるのも不思議ではない。英文学畑のわたしも授業で使ったり必要に迫られたりして、「欽定訳」にはよくお世話になる。ただし、わたしが本書であえて「欽定訳」を用いるのは、これとはまた別の理由があってのことである。

 聖書にはさまざまな固有名詞や特殊な用語が登場する。そして、それらのことばの意味が確立した宗教的、文化的な背景を解明することが、聖書神話を解読するうえでまず最初になすべき作業となる。ところが、アルタイ語族系ともいわれる日本語とアフリカ・アジア語族に属するヘブライ語とでは類縁関係はないので、日本語訳をとおしてでは直接的にことば本来の意味を探るわけにはいかない。これに対し、もっとも初期のヘブライ語の聖書が翻訳されたギリシャ語やラテン語は、フランス語やケルト語、あるいはサンスクリット語などと同じくインド・ヨーロッパ語族に属する言語であり、英語やドイツ語を含むゲルマン系の諸言語もこの語族から派生している。 さらに、紀元一世紀ごろのマタイ、マルコ、ルカ、ヨハネによる四福音書をはじめとして相次いで成立した新約聖書は、まずギリシャ語で記述され、それがラテン語訳を経たものをも含めて、 さまざまな言語に翻訳されて世界各地に伝播したという歴史をもつ。英語はインド・ヨーロッパ語族の特性を寄せ集めたような便利な性格をもっているため、英語を出発点にすると他の言語にもぐりこむ制約はかなり緩和されることになる。聖書神話を「解読する」という本書のテーマにとっては、「共同訳」よりも「欽定訳」を使ったほうがより理にかなった方策といえるのである。

 もっとも、わたしの本は聖書の解説書ではないので、神学上の解釈や聖書の細かい成り立ちなどについては専門家にまかせることにする。ここではむしろ壮大な聖書の神話世界を原理的、象徴的に読み解くおもしろさを読者に味わっていただきたい。新書という限られた紙数と神話創造の特色に鑑みて、ここで扱うおもな内容は、旧約では「トーラ」"Torah"(律法)と呼ばれる「モーセ五書」(「創世記」「出エジプト記」「レビ記」「民数記」「申命記」)のうちから「創世記」と「出エジプト記」に限定した。また、新約では「マルコ福音書」の成立年代がもっとも早いのだが、内容の豊富さとバランスの良さ、そして教会運営に関する記述があることなどから伝統的に四福音書のはじめに置かれる「マタイ福音書」に絞った。また、聖書全体の構成をタイポロジーとして読むため、旧約にかかわる話の内容はおおむね具体的となり、新約にかかわる内容はどちらかといえば抽象的になるかもしれない。話題の選択がかなり独断的になるかもしれないが、この点もあわせてご容赦いただきたい。

西山 清 著『聖書神話の解読:世界を知るための豊かな物語』(中公新書1446番 1998年)3ページから11ページまで

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