グリーンライティング

ジェイムズ C. マキューシック『グリーンライティング―ロマン主義とエコロジー』


川津雅江・小口一郎・直原典子(訳)(音羽書房鶴見書店、2009, 3)

グリーンライティング―ロマン主義とエコロジー

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日本の読者への序文


 ここ何年かの間に、英米文学の研究に新しいアプローチが現われ、文学批評が問いかける問題の性質が根本的に変化した。この新しいアプローチは、環境(エコロジカル・)文学(リテラリー)批評(クリティシズム)(あるいは単にエコクリティシズム)と呼ばれ、すべての先進工業国の中で環境についての懸念が高まった一九九〇年代に、はじめて明確に知られるようになった。エコクリティックたちは、環境の危機がとどまることなく増大し続ける時代の中で、文学批評の目的ばかりか、想像的文学の目的についても根本的な問いかけをし、思考をめぐらせてきた。たとえば文学批評家のジョナサン・ベイトは、『大地の歌』と題された重要な著作の中で問いかけている。「詩人は何のためにいるのだろうか」と。もっと具体的に問うてもよいかもしれない。詩とは現実の真正な表現なのか、それとも人生の飾りにすぎないのか。詩は社会や政治の問題に関与すべきなのか、それとも単に心地よい娯楽を提供すべきものなのか。

 これらはまちがいなく詩学の領域に入る問いかけである。ここで言う詩学とは、アリストテレスの『詩学』(紀元前三三五頃)によって最初に生み出され、ホラチウスの『詩論』(紀元前十八頃)がさらに発展させた学問分野を指している。具体的には、詩とは喜ばしくかつ有用(dulce et utile)であるべきだとホラチウスは述べた。地球環境への脅威が切迫している時代において、新しい学問であるエコクリティシズムは、詩の根本的な任務(つまり「有用性」)を構想し直すという重要な課題に取り組んでいるのである。現在という歴史上の時点において、エコクリティシズムは文学分析の単なるマイナーな方法であるにはとどまらない。なぜなら自然は、文学という人間ドラマの受動的な背景や舞台であるだけではないからだ。しばしば十九世紀の英米文学は、人類と自然界の関係についての永続的な問題に取り組む姿勢を示しており、そのため環境文学批評が発展していくためのもっとも重要な領域の一つとなっている。

 ジョナサン・ベイトが指摘するように、「現在の切迫しつつある破局は、何度もくり返し話題にされ、あまりにも身近なものになっている。」読み書きができる人なら誰でも、われわれの地球のエコシステムには、破滅的な運命が迫っていることに気づいている(あるいは気づくべきなのだ)。この運命のもたらすのは、地球の歴史全体を通してまったく前例のない、人間が引き起こした夥しい環境の危機である。ベイトは、環境に対するこれらの不吉な脅威を次のように要約している。「化石燃料の燃焼によって生じた二酸化炭素が、太陽の熱を閉じ込め、地球温暖化の原因となっている。氷河や永久凍土は解け、海面は上昇し、降雨パターンは変わり、風は強くなっている。また、海洋の魚は乱獲され、砂漠は広がり、森林は縮小し、真水は少なくなりつつある。地球上の生物種の多様性は低下している。」先進国の読み書き能力のある市民の全員が、これらの事実を知っている(あるいは知るべきである)。日本の人々にとって、一九九七年に採択された京都議定書はきっとなじみのものだろう。京都議定書は、すべての先進国が温室効果ガスの排出を大幅に削減しなければならないと定めた(ただし、アメリカ合衆国だけは唯一の例外であり、これは痛恨のきわみである)。しかし、全世界がこうした恐ろしいほどの環境問題を認識しているとはいえ、それは効果的な改善策に結びついていない。今日でも、持続可能なテクノロジーの開発を目指して、局所的に多くの努力が払われているにもかかわらず、全世界での温室効果ガスの排出は加速度的なカーブを描いて増大し続けている。われわれは地球を死においやろうとしているのだ!

 国際社会は、なぜこれら緊急の環境問題に効果的な解決策を打ち出すことができなかったのだろうか。おそらくそれは、現代の産業文化の深い基盤のところで何かがまちがっているからだろう。必要なのはテクノロジーによる巧みな応急措置ではなく、人間の意識の根本的な変化ではないだろうか。もしそうならば、詩を研究することは、これら全地球規模の問題の解決に貢献することができると言える。なぜなら(ベイトが主張しているように)「文学の仕事は意識に働きかけること」なのだから。言い方を変えれば、文学の研究は、われわれの根本的な倫理的価値観を問いただすことができるということである。過去数世紀にわたり、地球環境は実用の対象であり、手段であるとする認識が絶えることなく西洋文化全体に浸透していた。環境文学批評は、文学がこの認識をどのように表象しているのか、またそれをどのように変容させる潜在力をもっているのかを探ることに着手するのだ。


(中略)


 新興の学問分野であるエコクリティシズムは、(今のところはまだ)文学を解釈するための単一のパラダイムを打ち立ててはいない。しかし実際には、複数の異なるアプローチによって、エコロジカルな観点から英米文学について実り豊かで示唆に富む解釈が提示されている。このようなアプローチの一つに、文学が生み出される「生育地(ハビタット)」に注目し、詩が具体的な土地の地誌に根差していることを研究する方法がある。このアプローチの先駆けとなったのは、デイヴィッド・マクラッケンの『ワーズワスと湖水地方』(一九八五)である。これは、ウィリアム・ワーズワスの詩を具体的な地理的文脈に位置づけ、地図や散策の案内書も掲載した包括的な研究であり、山や湖や川の具体的なイメージが、ワーズワスの詩の本質を重要なやり方で形成していることを検証している。このような研究方法は、特定な場所から決定的な影響を受けた文学者の場合には、とりわけ多くの知見をもたらしてくれる。ジョン・クレア、ジョン・ミューア、メアリー・オースティンのような地域に根差した作家の地理的文脈に関して、なお多くの基礎的な研究がこれからなされなければならない。私は研究者たちに言いたい、「外に出て、歩きはじめよう!」と。(そのときヘンリー・デイヴィッド・ソローの偉大なエッセイ「ウォーキング」を、忘れずにズボンのポケットに入れてもっていこう。)(ix-xii)

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