イギリスに花開くヘレニズム:パルテノン・マーブルの光と影


イギリスに花開くヘレニズム―パルテノン・マーブルの光と影

『イギリスに花開くヘレニズム―パルテノン・マーブルの光と影』
(丸善プラネット 2008年)


西山 清 著

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 大英博物館正面に聳えるイオニア式柱廊玄関から館内に入ると、ロビーは光あふれる巨大なドームとなっている。少し進んで左手(西側)の入り口を見ると「古代ギリシア・ローマ遺物展示室」という表示がある。照明を落としてある入り口から中に入って、エジプトの石像が並ぶ通廊とローマの石像が展示されている部屋を横切り、そのまま進んで分厚いガラスの扉を開けて中に入ると、そこが「パルテノン・マーブル」を蔵するデュヴィーン・ギャラリーである。
 ここには浮き彫りを施した大理石板を含めて、数多くの大理石像が展示されている。バッカス(デュオニュソス)やポセイドン(ネプトゥーヌス)の像などをはじめとするこの古代ギリシアの石像群は、イギリスでは一般に「エルギン・マーブル」と呼ばれている。この名称は、一八一六年に三万五千ポンドという巨費を投じて国家がエルギン伯爵から買い上げたことに由来する。エルギンは当時オスマン・トルコの支配下にあったパルテノン神殿の遺跡からこれを持ち帰ったのだったが、イギリスの総人口の八割強が五〇ポンドほどの年収で暮らしていた時代だと聞けば、買い上げ価格の大きさに大方の読者は驚かれるに違いない。
 東西二つの壁面には彫刻を施した大理石板が並べられているが、それだけでも全長八四メートルある。しかし、丸彫りや高浮彫りからなる石像群の全体を見回してみれば、およそひとつとして完全なものはない。手足や鼻が削られている像は当たり前で、丸彫り像などは一体をのぞいてすべて首から上が取れている。さらには石板の表面もそぎ取られたり端が欠けていたりするなど,見方によっては瓦礫の山と映るかもしれない。一八一七年に初めてこの群像を目にした人々が驚嘆したのは、芸術性や規模の壮大さではなくてむしろその不完全さであったという話も,あながち誇張ばかりでとは言い切れない。
 一八世紀のイギリスで彫刻といえば、おもに古代ギリシアのオリジナルを紀元一,二世紀のローマ時代に模倣、複製したいわゆるグレコ・ローマンスタイルのブロンズ像や大理石像であった。完璧なまでに均整が取れ、肌理あくまで滑らかな彫像を揃えた有名なタウンレー・コレクションなどはその典型であり、また、ベルヴェデーレのアポロン像やメディチ家のウェヌス(ヴィーナス)像などは彫像の最高傑作と考えられていた。そのような彫刻美によって審美眼を育まれていた人びとの前に、ギリシア芸術の最盛期にあたる紀元前五世紀に造形されたエルギン・マーブルがもたらされた衝撃は大きかった。すでに一七世紀後半からドライデンやアディソン、ポープなどの著作によってギリシア彫刻の秀逸さを間接的には知っていた人びとも、これがイギリスの上陸した初めてのギリシアのオリジナル彫刻であると知らされると、その比類ない力強さと豊かさにあらためて新鮮な感動と驚きを覚えたのだった。
 エルギン・マーブルの影響は、一九世紀以降のイギリスにおける彫刻の分野にとどまらず、文芸や建築などを含めて広く文化のありように及ぶことになる。とりわけ、この群像が紹介された時期とほぼ活動の時期が重なるイギリス・ロマン派の詩人や批評家にとっては、一八世紀の新古典主義の枠組みに収まりきらない想像力と美意識を顕在化したものと考えられた。いわば群像は彼らの美意識の客観的な相関物だった。イギリスばかりではない。フランス、イタリア、ドイツなどでもその存在は広く知られるところとなり、エルギン・マーブルは西欧社会の視覚芸術の潮流を,ローマからギリシアに転換させる一大契機となったのである。

(中略)

 この本はおもに当時の新聞や雑誌、国会議事録などに残された記事をもとにして、一八世紀中葉から一九世紀にかけて啓蒙思想の流れに乗ってイギリス社会に生じたヘレニズム復興という現象を,「エルギン・マーブル」の購入という社会的事件を中心に再現した物である。文学や美術、建築の分野までも包括するこの「石の文化」ともいうべき社会現象の遺産は、ロマン派の時代を経てヴィクトリア朝のイギリス社会に受け継がれ、ひとつの文化的イデオロギーとして現代にまでなお連綿と脈打っている。現代のイギリス文化のありようにヘレニズムのはたした役割は、決して小さくはない。

(後略)
『イギリスに花開くヘレニズム:パルテノン・マーブルの光と影』(丸善プラネット)(p.i,ii,viii,ixより引用)

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